RainbowSongのブログ

根暗で非コミュの30歳。腎炎持ち。文化系の趣味を自称したいけどアウトプットが何もできない。

一年半の記憶がない

また転職することになった。現職については入社一日目から違和感を覚えていた。いや、そもそも転職活動をしていた頃、この会社に入社を決める瞬間から違和感は持っていた。本当にここでいいのか。自分の本音に嘘をついて、専門性の低い仕事だけをやっていては将来困るだろうからって多忙そうな環境に自ら飛び込んだ。仕事なんてさっさと片付けて家に帰ってひきこもりたいと思っている人間がとる選択肢ではなかったかな。

いや、でも。一社目のまま、ただエクセルをいじるだけの業務をやっていることには嫌気が差していた。転職すること自体はやはりアリな選択だった。不幸なことに、次に選んだ会社がブラック(気味のグレー)会社であっただけだ。

収穫はあった。妻の愛情に気づけたこと。結婚しておいて何を今さらと言った感じだが、トントン拍子で彼女との関係が深まり、たいした葛藤もなく、悪く言えば漫然と彼女と籍を入れたように思う。そういうわけで幼稚な思考の自分はどうやら少なからず新婚生活に不満を抱いていたようで、彼女のありがたさい気づいていなかった。転職まもなく、会社に馴染めず、持病は再発し、逃げ場も救いもない状況に陥って、自分はもう狂いそうだった。そんなどうしようもない旦那を、彼女は見捨てるどころか、「力になりたいけどどうしてあげればいいか分からない」と言ってこんな旦那のために泣いてくれたのだ。この人は本当に自分のことを大事に思ってくれているだと、ここにきてようやく理解した。こんな地獄のような一年半を過ごしたから、彼女の愛情に気づけたし、自分はこれから絶対に彼女を支えていきたいと思っている。

そして今、彼女は妊娠している。

自分の人生に明確な目標ができたようで、妊娠が分かってから以降は視界がクリアになった気がしている。(とは言え、我儘を通して二度目の転職を行うんだけども)

妻をすごく愛しいと思うし、家に帰ることが毎日楽しい。二人で無駄に時間を過ごしていくことが楽しい。そりゃあもっと本を読む時間、映画を見る時間、バラエティを見る時間も欲しいけどね。やれる範囲でやれればいい。今はそう思えるのだ。

びくびくしながら生きている人間

嫌われる恐怖から孤独を選ぶ、ってのはまさしく自分のことである。できることならば自宅でひきこもって、高度に発展した資本主義の恩恵に預かりコンビニや外食産業を利用することで働かずして生き長らえるだけの生活をしたい。常々そう思いながら、会社のオフィスでため息をついて毎日を過ごしている。

記事と比べて自分がまだマシなのは、仕事上においては何とか人とコミュニケーションがとれる(と思っている)ことだ。自分は、共通の目的概念があれば人と話せるのだ。逆に、何の目的もない、言うならばコミュニケーションを取ること自体が目的、みたいな環境におかれるともう一歩も動けなくなってしまう。物事には全て正解があるんじゃないかと思っている自分は、自由度が高すぎる環境におかれると変数が多すぎて答えが導き出せずついには思考回路がショートしてしまう。だから、人との雑談なんて地獄の所業である。

何を言いたいのかというと、やっぱり自分は組織で働くことに向いていないということだ。仕事自体は好きである。問題を解決するプロセスを考え、試行錯誤の末に事態をクリアすることは達成感があり、気持ちがいい。だが、それ以外の人付き合いは全く駄目である。気の合う人としか話をする気がしないし、処世術のために自分を殺してお愛想を振りまくことができない。苦痛すぎて耐えられない。あと35年もこの苦痛が続くのかと思うと、将来を考えてしまう。一人で仕事だけしたいなら起業ということをすぐに思いつくが、コミュ障の自分に営業力があるはずもなく、となると、士業でもやればなんとかやっていけるのか?いや、結局それも営業力が必要か。…と考えて気落ちする毎日。

どこかに飛び立ちたい。

最近胸にひっかかるものがある

30歳という頃合いだからだろうか。周りで「妊娠した」という話題を聞くことが多い。

正直、子どもなんて苦手である。理屈が通じないし自分の時間はなくなるだろうし苦労が多そうだ。だから“子どもができにくい身体”とカミングアウトされた時だって全然平気だった。一顧だにしなかった。その気持ちは今も変わらない。

が、最近は、不妊治療の過程で沈んでる妻を見ていると、兄弟や会社同僚たちから「子どもができた(しかも二人目)」などの言葉を聞くと胸にくるものがでてきた。書店や電車の中吊り広告等で“妊娠”というキーワードがあると何か反応してしまう。

傍にいるだけの自分でさえこれだけ胸に波風立ってしまうのだから、治療している本人の気持ちは計り知れない。もともと繊細で気にしいの彼女だから、さぞ苦しんでいるだろう。その思いを想像するとたまらなくなる。

これから何年この治療生活が続くのか分からんけど、彼女の気持ちが折れないようにサポートしていけたらなぁと思う。二人の生活を楽しみながら過ごすことが一番大事に思う。いっぱい出かけて、美味しいご飯を食べたり旅行に行ったり観光地に行ったり、そうして楽しさで夢中に過ごすのだ。そしてある時、忘れた頃に朗報が届く、みたいなことになれば理想だと思う。

不妊治療に取り組む妻の夫ができることは何だろうなぁと、最近よく考えてしまう。

躁が止まらなくて怖い

時間が足りない。

英語の勉強をしたいし、日経新聞を読みたいし、新書を読みたいし、ラジオを聞きたいし、ネット(はてブ)をしたいし、映画を見たい。あと、どこかに出かけたい。平日の仕事で割かれる時間がもどかしくて仕方がない。最近になってようやく仕事をこなすことを覚えてきて、そこまで苦痛を感じることなく処理できるようになってきた。だからこそのここまで色んな意欲が湧きあがるんだと思う。

転職を経て、過度のストレスを感じることなく平日を過ごせることの幸せを認識している。転職初年度の2014年は本当に地獄だった。もう二度と戻りたくない。とは言え、自分が今の会社で一生勤めているのかと思うとそれもあまり想像できない。あともう一度転職するような気がする。そうするとまたあの息をするのも苦しい毎日を経験することになるのか?会社固有の事象なのか、自分という人間性の事由なのか。原因がいまいち正確に捉えられずにいる。

とにかく。目がバリバリに冴えて4時から起きて活動しているのだ。布団の中から

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をポチった。E-M5ぶら下げて、タイに行きたいんご。(最近はSTYLUS 1買っとけば良かったと公開すること多々。でもちゃんと勉強をしてレンズ交換式一眼を使いこなすぞ!) 

会社員に向いていない。でもそれでしか生きていけない。


一回の転職で大いに後悔して鬱病手前までいった自分からすると、この記事に言及せずにはいられない。

もともと自分がコミュ障気味であることは認識していた。大企業と呼ばれる会社に入り、同期は裕に3桁をいく環境の中で、自然に、ごくシームレスに浮いていく自分がいた。この環境ではもう駄目だ、結婚をした今ならきっと明るく前向きに、もう一度人間関係を作り直せるだろうという甘い考えをもって(本当に、本当に本当に甘い考えだった)転職を実行した。それがどうだ。一年近く経とうとしている今、結局自分は以前の職場のような環境を作りだしてようやく安穏としている。つまり、昼休みは一人で過ごすし、夜の付き合いはお断りだし、極力人と話をしないということだ。

転職直後は自分に「絶対、人と交流する」という思い鎖を科し、本心では拒否感しかないのに、(会ったばかりで当然だけど)よく知りもしない得体の知れない人たちとゾロゾロつるんで昼食の都内に繰り出した。話題は思いつかない。どのようにしてこの空間にいればよいのか検討もつかない。結果、昼飯が喉を通らなくなった。それでもその苦行を続け、挙句には平日の朝まで食事が喉を通らなくなった。通勤途中で嘔吐することもあった。

なんでここまでして人と馴れ合いたいのだろう。ひとりぼっちでいることを望んでいる。それは確かなのに、誰かに「ひとりだ」と思われることがとてつもなく怖くて、そう思われることを避けるがためだけにここまでの苦行を続けなければならなかった。なぜここまで恐怖心を感じるのか、未だに理解ができていない。意地を張ってこの苦行を続けることも、退避して自分の殻に閉じこもることも、どちらも地獄だった。

結局この認識(の病)は自力では解決できていない。持病再発という外的な理由を用いて今は一人で過ごすことを正当化している。言い訳があるから自分の胸の中でもある程度納得ができていて、一人で過ごせるこの環境をただただ甘受している。

オフィスでは、居づらい。気安く話ができる人は一人もいない。軽い雑談なんてできるはずもなく、息が詰まる。唯一安らげるのは男子トイレの大便器の場所だけだ。毎日、一分でも早く家に帰りたいと思っている。それでも最近はまだこの環境、自分という人間を受け容れられてきたように思う。ようやく今になって開き直ってきて、食欲は戻ってきたし、本を読みたい映画を見たいラジオを聞きたい観光地に足を運びたいといった意欲も湧いてきた。“興味”が湧いてくればこっちのものである。会社生活なんてあくまでもオプションであり、プライベートでやりたいことがあればそれだけで生きていける。

自分は本当に会社員に向いていないんだと思う。多くの人間と絡まざるをえない大企業なんて特に合っていないんだろう。それでも給料や福利厚生、持病持ちであることを考えるとこの環境以外に身を置くことは考えられない。こんな人間性だから部長からの評価は低いし、きっとこのまま昇進もできずにヒラ中のヒラのままサラリーマン人生を終えるんだと思う(新しい会社は昇進試験が厳格で、前みたいにただのほほんと過ごしているだけでは昇進ができないのだ)。それでも、まぁ、もう、仕方ないんだろうな。オフィスに居るだけで、人と廊下ですれ違うだけで心が疲弊する人間がいるなんて、皆誰も想像できないのだろう。毎日せっせと通勤して、与えられた仕事を粛々とこなしていく。それだけで充分じゃないかって、最近は自分を認めてやろうと思えてきた。あと30(+5?)年も続く会社生活をこのまま乗り切れるのかは大いに不安ではある。けれども、自分という人間性を受け容れて、なんとかやっていくしかないのだ。自分で自分を非難することをやめ、人の目を気にせず、定年まで勤め上げられたらいいな。自分の退職時には誰からのメッセージカードも拍手も送別会もないだろうけれど、それでもそうやってしか生きていけない自分を、自分くらいは認めてやらなければならない。

昼休みのトイレ(大便器に座って)増田を読んで、そんなことを思った。

鬱のち躁転?

持病が再発した関係で12月からステロイド(という薬)を飲んでいるのだが、ご存知の通りこれがまた副作用の大きい薬である。その一つに躁欝状態、多幸感、不眠がある。躁鬱はどちらかというと躁の傾向に出ることが多いらしく、思えば三年前の再発時にも漲る全能感に包まれて、再発直後はむしろ意欲旺盛で精神的に健全だったように思う。今回も服用後一ヶ月を経過した辺りからだんだん気分が昂揚してきて、今では平日も含めて毎日5時には起床し、英語の勉強をしてから会社に出社するというエリートリーマンっぷりである。そしてそれがすごく楽しい。楽しいというか、達成感を感じて興奮する。

薬の影響なのかは知らんが、死を考えるほど辛かった会社についても、だいぶん精神的に落ち着いてきた。この回復は急速であった。思えば、非コミュな自分が転職というアクションを行ったこと自体が、重度の鬱状態を招く帰結を避けられなかったのだろう。転職後丸八ヶ月が経過してようやくオフィスに身を置くことのストレスが和らいできている。上司も、経歴と上辺だけ優秀な無能さんから、朴訥で非コミュ気味だけど真摯に向き合ってくれる方に変わり、その環境変化も大きいのかもしれない。とにかく、一分一秒が血がにじむように辛かった会社での時間が、ようやく平常の精神の範疇で過ごせるようになってきた。これは大きい。

薬の影響もあろうが、今は知識欲が旺盛で、毎日が楽しい。何かを勉強したい、自分の知識として取り込みたいというこの意欲の発生が嬉しくて嬉しくて。転職してからは毎日をやり過ごすことだけが精一杯で、週末も奥さんさえいなければずっと布団で突っ伏していたいような状態であった。何もやる気が起きないということがとても辛かった。生きることに価値を見いだせなかったし、未来には絶望しかなかった。今は読みたい本が沢山あるし、勉強をしたいし、何かしら資格も目指したい。知識を得て自分の世界が広がっていくことが楽しみで仕方がない。海外転勤が憂鬱で仕方なかったけど、今では「まぁなんとかなるんじゃない」くらいにさえ思えている。(ここまでくるとちょっと躁という精神異常のレベルなのかもしれんが。)

微妙に関係ないけど、触れるテキスト類は、やはり出版社を通した書籍であったり、新聞が有意義だと思うようになった。気軽についついネットでまとめサイトなどを見てしまいがちだが、コンテンツとして面白いのは(当たり前だが)人の手がかかっている書籍や新聞だ。今ではRSSの消化がめっきり減り、スマホ日経新聞を読んだりKindleや図書館を活用しての新書・単行本に没頭している。

そういうわけで、今はようやく充実した日々を過ごしており、週末に心から妻と笑い合えるようになった。どん底の時期を愚痴もこぼさず支えてくれた妻には本当に感謝している。転職後からの地獄のような日々の中でも、妻の確かな愛情を感じれたことだけは本当によい経験だった。臭いことを色々書いていて大変に臭いのだけれど、他人を信用しない自分にとって、あの妻の献身さは驚きであった。無償で、利己のためでなく、ただただ夫(おれ)のことを心配するあの様。妻とはいえ、どこかしら醒めた感覚があり、おれはおれ彼女は彼女みたいな気持ちをもっていた自分(酷い話だけど自分という人間の性格がこのようなものだから仕方がなかった)。でも今は妻の愛情を確かなものとして感じるし、自分は絶対にこの彼女を幸せにするために頑張りたいと思っている。

とまぁ。2015年に入ってから気持ち悪いくらいに気持ちが前向きになっている。単なる薬の副作用で躁に入っているだけかもしれず、鬱へのリバウンドも警戒しなければならない。でも今は、朝早くに起きて笑顔で奥さんと過ごせるので、よしとしようか。

今がどん底

↓を書いたのが11月上旬頃か。ずっと書ききれずに下書き保存していた。そして今はもう、再転職などできるはずがない状況になった。持病の再発。下手をすれば新しい職場を解雇されるだろう。人生真っ暗闇。この無責任体質で妻帯者。現実って怖すぎ。

 

これからこのブログは、転職への後悔を綴る場となります。自分の中では(宝くじを当てるような確率であることは百も承知であるが)2,3年後の古巣復帰を寄る辺としており、それだけに支えられてただただ目の前の毎日をやり過ごしている状況。まぁこの会社に就職したのもせっかくなので「これをやった」という業務経験を重ね、せめて次の場所で何かしらアピールできるものを作ろうと思っている。古巣復帰無理でも、とにかくどこか別の会社に行く。別の会社の場合、結局最初の会社と比較するだけで何の問題解決にならないことは容易に想像できるが、それでも、だ。動く未来が存在する、ということに意味があるのだ。今のこの不安を和らげるには。(本当は気づいている。自分が望むような環境を提供してくれる会社など存在しない。今は最早仕事内容は退屈でもいいから閑職を望む。そんな会社で中途を募集するところなど、あるハズがない。あまり考えると真剣に死にたくなるから考えないようにしてる)

「転職 後悔」とか「後悔 鬱」とか調べてみても役に立つ情報はこれっぽっちもないし、クソみたいな現実は一向に改善しない。なぜこんなに会社が苦しいか。仕事についていけないという不安感がとても大きい。加えて、自分のコミュ障なる人格が会社での滞在時間を地獄にしているのだ。今度の会社は逃げ場がない。一人になる場所がこれっぽっちもない。(唯一、トイレ個室の中だけか)

無理なんだよ、こんな環境。こんな人格でもやれた以前の職場環境がいかに恵まれていたかが今になって身にしみてわかる。